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否定神学の系譜。

ローゼンメイデン8巻なにあれ。薄すぎでしょう。
わかっちゃいるけど買っちゃったたよ兄さん。
ていうかラプラスの魔ってえらい便利なキャラだな。

少し前の本ですが、北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』読了。
もともと批評には積極的に手を出す人間ではないが、
「批評的な視座」の獲得には憧れを抱いてはいる。
そんなこと性分ではないのはわかりきってはいるのだが、何か格好いいじゃないですか。
批評を読みたくなるときは大概きまっている。
自分の蓄積してきた人生経験が何となくおもっ苦しく感じたてきたとき、
いつでも思わず批評本を手にとっている。
ある種の批評というものは、僕にとっては一種のナラティブ・セラピーなのです。

本は記号の羅列である。
本を読むという行為は、記号を個人の経験を通じて身体に還元するということ。
もちろんこの「経験」には読書体験も含まれており、
ある本を読むということは別の本を読んだ経験を通して読むということである。
とまぁこんな感じに「読む」という行為そのものに言及すると、
今の僕の思考はひどくありがちな出口のない入れ子構造に陥ってしまう。
こういう「メタ」な視点からとりあえず離れてみよう。
実は「経験」は僕個人にとって「ブラックボックス」であると感じている。
本と「僕自身」の間には「経験」という言語化できない(わけのわかんない)隔たりがある。
このブラックボックスを何とかしないと、
「素直な読書体験」はできなさそうにも思えてくるのだが、
それはそれとして横に置いておくことにします。終了。

本を読んだ、その結果経験を通じて記号が身体性を獲得して、
僕自身のステータスが変化する。
たまさかそれはつまらへん、よーわからんといった感情で表象されることもあれば、
なんだか僕自身のステータスの深いところを揺さぶられるようなこともある。
「うわこの本、この物語、僕のこと書いてるんとちゃうん?」みたいな感情。
ともあれ、これを感じた時にはあのよくわからない「経験」の闇が吹き払われる。
ちょっとだけですが、読んだ文章に贖われるように「経験」が僕自身の「物語」と化す。
誰かが書いたフォーマットにしたがってしか自分自身の物語は再構成されない。

なにこのよくわかる現代魔法(読んでないけど)。

自分の言葉で経験=自分を語ることができない、
そんな僕は読書することによってでしか収支をつけることができない。
これではどうあがいたってあの主体性とやらを獲得することは難しいわけだが、
とりあえず『嗤う日本の「ナショナリズム」』に話を戻してみる。
2ちゃんねるの一部のテキストにみられるものの感じ方の構造を、
歴史的な視点から読み解いていったていう否定神学の系譜。
一部の人々の「どうしてこんな場所にきてしまったんだ?」という叫びにしたがって、
著者は60年代を、70年代を、80年代を再現してゆく。
赤軍、糸井重里、「ギョーカイ人達」を依代に「時代精神」を降霊させてゆく。
その時代精神の、なんというか絶望的なまでの脱力感。
結局この40年間まぁいって見ればサブカルチャーが志向してきたものは何も変わらず、
その行動の様式的手続きが分析対象としては複雑化しただけ。
ほんと、なんでこんな場所にきてしまったんだろう。
いや来てしまったのは僕自身であるはずなのだけれども。

いきなり個人のレベルに視点を落とし込んでいます。
難儀だなぁ…
> 実は「経験」は僕個人にとって「ブラックボックス」であると感じている。
きっとこの辺を何とかせなあかんのでしょうね。

そうそう。La Pierre Blancheの板チョコ購入。税込840円也。
いわゆる70パーセントのハイカカオのチョコレートだったわけだが、
さすが神戸のショコラティエのファンタジスタ(勝手に呼んでます)、
なんていうか、滑らかでまったりとしてて、ちっともとんがった雰囲気が無い。
チョコレートが発酵食品であることを思い出させてくれるような魅惑的な味でした。
最近チロルチョコの「塩バニラ」も好きですが。

『嗤う日本の「ナショナリズム」』、ちょっとウルフの「オーランドー」っぽかった。
いやこれは単なる色眼鏡。

「もやしもん」最近蛍がお気に入りです。ゴスロリバンザイ。
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by vanitas-vanitatum | 2007-06-24 05:36 |
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