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イメージとしての未来と……
最近延長戦を戦ってるような気がします。
はやくサヨナラしたいなーなんて。 1、イメージとしての未来。 未来はまるで鍵穴から覗いた暖炉のある部屋である。 暖かくて、適度に薄暗い。 厚い絨毯、揺らめく炎にロッキングチェア。 どうです?とても居心地、よさそうでしょう。 ただし、そこで大切なことがある。 その暖かい部屋に、あなたはいないし私もいない。 私たちはあくまでも鍵穴からその部屋を覗くだけである。 私たちは、完全にその部屋から締め出されている。 そこにある居心地の良さは、私達自身の不在と分かちがたい。 区切られたそのイメージは、 まるで一つの文字であるかのように明確で、何より純粋だ。 だってそこに私達の介入する余地は完全にないのだから。 さて。 網について考えてみよう。 どんなものだろうか。 網とは、魚などをとるための、糸を編んで作った道具のこと。 定義してみると、そんなところだろう。 藻が絡まった、水から引き上げられた網の上で青い背をした魚が跳ね回る。 勢いよく尾をたたきつけられる魚を手に感じ、漁師はさらに網を引き上げる。 そんなことはどうでもいいか。 網を言い換えてみよう。 網とは、糸で連結された空白の集合である。 私とは、いわばこの網の目のようなものである。 あくまでも私を形作るのは周りの事象との関連性である。 私自身は空白に他ならない。 2、中心に浸透するものの欠落と永遠に続く今。 映画だろうと、漫画だろうと、ビジネス的、あるいは政治的言説であろうと、 私は常日頃様々なnarrativeに触れている。 「私の言いたいことをこんなにもよく知っている彼(あるいは彼女)は一体何者だろう」 私はままにあるnarrativeに触れた際に、このような感覚を抱く。 仮に私を(A)と、私の相似形たるnarrativeを(A)’としよう。 (A)と(A)’を定点から眺めた際にその向こうにいわば視差により 私でもnarrativeそのものでもない(A)’’が生じる。 この(A)’’は、私でもなく、語られた物語ではなく、 たった今私がnarrativeに触れることにより生成される現在進行形の物語である。
by vanitas-vanitatum
| 2006-03-21 01:36
| よしなしごと
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